2024年は、永久コピーライトを主張するロンドンの独占的書籍業者・ベケットらとエディンバラの「海賊」出版者・ドナルドソンが闘った「ドナルドソン対ベケット裁判」から250年目になる。裁判の結果は、ベケットらの敗北となり、コピーライトは期限付きとするトレンドが固まった。

詳細は、拙著の『〈海賊版〉の思想−−18世紀英国の永久コピーライト闘争』(みすず書房、2007年)や、もっと学術的な本としては、白田秀彰『コピーライトの史的展開』(信山社、1998年)を読んでもらいたい。

この裁判は、単に「正規版」と「海賊版」という争いではなく、書籍業者間、法律家間のライバル関係が複雑にからみあっていた。コピーライト史だけではなく、出版史、文芸史、文化史、政治史などの観点からみても、実に興味深い材料が揃っている。また、これは単純な「正義」と「悪」の闘いではなく、最終的に「海賊」側の主張に軍配があがっことも特筆すべきだ。

特に読んでもらいたいのは、最高裁である上院での裁判を決定づけた元大法官・カムデン卿の演説である。知識と文化の永久排他権を非とする、いまでも古びない彼の主張を、意訳と補注を交えて紹介しておく。(出展は、上記『〈海賊版〉の思想』130−132頁)

 もしこの世界に人類に共有されるべきものがあるとすれば、科学と学問こそが公共のものです。それらは空気や水のように自由で、普遍的であるべきです。科学と学問は、高貴な才能と莫大な利益を独占しようとする輩と同様に、それを生み出したものをも忘却します。人類共通の幸福のために互いの心を啓蒙し、能力を高めることなしに、社会を作ることなどできましょうか?……

 わたしはパンのために書く三文文士のことをいっているのではありません。そのようなひとびとは、彼らの恥知らずな生産物で印刷所をいじめます。[当時のコピーライト法の「アン法」が定める]14年間という期間は、彼らの腐りやすいゴミへの特権としては長過ぎます。それは、世界を導き大きな喜びを与えたベーコン、ニュートン、ミルトン、ロックには、なんの得にもなっていません。書店主が『失楽園』への対価としてミルトンに5ポンドを提示したとき、彼はそれを断りませんでした。労働への報酬としては、みじめなほどわずかでしたが、作品の本当の値段は計り知れず、後代のひともそれにお金を払うことはわかっていました。

 著者のなかには利益に関心がないひともいますが、著者以外のひとびとは強欲です。もし[権利が永久につづくことによって]役に立つ本の第2版を[他の出版者が]世に出す方法がなかったとしたら、あるいは、ある版の販売でご夫人や子どもたちが賄われるまで新版を出すのを待つとしたら、公衆はどのような文学状況に置かれてしまうでしょうか。すべての学問は、その時代の[独占出版者の]トンソンとリントンの手のなかに囲われるでしょう。強欲な彼らは、ありったけ不作法な値段をつけるでしょう――彼らの乗用馬を集めるひとのように、公衆が彼らの奴隷になるまで。

 後世の書店主は、商売人がするように市場を買い占めて、独占者になりました。もし独占がみなさんの判決によって許されるならば、本が法外な値段になることを招くに違いありません。すべての価値ある著者は、彼らに独占されるでしょう――いまのシェークスピアのように。無造作に町が壊されてシェークスピアが引退したとき、過去の著者たちがそうだったように、彼の作品はまちがいなく公衆のものになったのです。ですが、ふたりの舞台裏方がシェークスピアの作品を手に入れました。そしてシェークスピア作品のいまの所有者は、そのコピーを彼らから手に入れたことを口実にしています。ですから、シェークスピア自身は、わずかな報酬も受け取っていないのです。

 いま争われている永久性は、忌まわしく利己的なものです。それは最大限、反対されるに値し、我慢ならないものです。知識と科学は、このような蜘蛛の巣の鎖に閉じこめられるものではありません。一度かごから鳥が逃げたら、アイルランド、スコットランド、アメリカは彼女に[「海賊版」という]隠れ家を提供するでしょう。

 では、みなさんはどう行動しますか? わたしは、「アン法」をいろいろな角度から考察したうえで、こう結論づけます――古いコピーは21年間、そして新しいものは14年間、権利を与えられることに注意することです。もし立法府が権利は永久だと思っていたならば、その保証についてもおなじように取り計らったはずです。