映画「Winny」を鑑賞した。シナリオ開発のクラファンに雀の涙ほどの寄付をしたあと、進展の噂を聞かなくなったので、プロジェクトがぽしゃったのかと思っていたら、完成・公開にいたったのは喜ばしい。あの事件のことを新しい世代にも記憶してもらえるのはいいことだ。

事件について文章を書いたことを思い出したので、当時のものを発掘して掲載しておく。なにしろ20年近く前の文章なので古色を帯びているが、そう間違ってはいなかったとみえ、胸をなでおろしている。

「強まる一方のデジタル著作権」(京都新聞、2004年5月24日)抜粋

 パソコンのファイル共有ソフト「ウィニー」を開発した東大助手が、京都府警に逮捕された。開発者の行為が著作権法違反幇助に問えるのか、逮捕までする必要が本当にあったのか、逮捕の根拠になっている著作権法が、そもそもどういうものなのかについて、議論が広がりつつある。

 この事件で、「ウィニー」による違法なファイル交換が減り、短期的には音楽・映像業界にいくばくかの利益をもたらすかもしれない。しかし、長い目でみれば、今回のような逮捕は、誰の得にもならないだろうと、わたしは考える。

 第一に、「ウィニー」の利用者のことを考えてみよう。一説では、「ウィニー」の利用者数は、日本国内だけで百万人とも二百万人ともいわれている。……つまり、それだけの数のひとが、パソコンを使ってファイルを交換するという行動パターンを持っていて、デジタル著作物への需要があるということだ。

 第二に、権利者のことを考えてみよう。この事件でソフト開発者が萎縮してしまうと、技術のイノベーションや、そこからのあらたなビジネス展開には、あきらかなマイナスになる。最近増えてきた音楽ファイルのダウンロード・サービスにしても、もとは音楽の権利を持たない者が作って成功したものだった。……つまり、違法とされる行為も、マーケット・リサーチの意味で権利者の役に立ったのだ。

 「ウィニー」は優れたソフトウェアだし、権利をクリアした著作物の共有方法として、あるいは新ビジネスの基盤として、多くの可能性を秘めていると思う。捕まるかもしれないという理由で、革新的なソフトを開発する意欲が鈍ってしまうことが恐い。

(中略)

 この逮捕劇を通して、わたしたちは、ひとつの教訓を学んだ。インターネットは、もはや仮想でも匿名でもなく、そこでの不用意な書き込みを口実にして、現実社会の公権力が介入してくるということだ。今回のことで、ネット社会は変質していかざるを得ないかもしれない。その変質が「成熟」であることに、わずかな期待をかけたい。

もうひとつ、一審の有罪判決が出たときに、電話取材で寄せた短いコメントがあった。

「ネットも論議沸騰」(京都新聞(夕刊)、2006年12月13日)

 推測しかできない金子被告の主観的態様を有罪の根拠にしたことに疑問を感じる。技術は本来、無色透明で、使い方次第で違法行為もあり得る。今回の判決で、開発者の意欲は社会的に制約される。日本のソフト開発にとって大きな痛手だ。

音楽など既存のコンテンツ業界は希少性に価値を置いて収益を得るが、ネットは誰もが情報を発信し、流通させる機能を持つ。コンテンツの共有・拡散に価値を見いだしつつ、創作の労に報いるようなビジネス構造への転換を図る必要がある。

映画でも触れられていたように、当時はウィルスに感染したWinnyによる、警察を含む官公庁からの情報流出があいついでいた。その原因は、Winnyを修正することすら、公判中の開発者に許されなかったことにもあり、いわば公権力の自業自得のような流出だった。筆者の勤務先の監督官庁からもWinnyを名指しで使用禁止通達が出ていたので、擁護論は言いにくかったなか、ローカルメディアとはいえ、われながらよく言ったと思う。

ちなみに、最高裁無罪のときには、取材された記憶はない。